鏡は次の場面を映す。それは誠の知らない光景だった。薄暗い部屋。そこに、全裸の女性と一人の男がいた。女性は向日葵だった。虚ろな目をしていて、そんな向日葵を見知らぬ男がじっと見下ろしている。
「ここは?」
「向日葵さんの恋人の部屋です。すみれさんとあなたが結婚した時、彼女にはちゃんとした彼氏がいました。それがこの男性です」
男は誠よりも厳(いか)つい体をしていて、体育系な感じがした。
「向日葵さんはとても寂しがり屋な女性でした。つまり、常に誰かといないと耐えられない女性だったのです。この男性も、ちゃんとした手順を踏んで付き合った男性ではありません。簡単に言えば、行きずりであんな関係になったのです」
「‥‥」
そんな事実はまったく知らなかった。向日葵は誠の前では、常に可愛い顔で甘えてきた。そこには、そんな感じなど微塵も感じ取れなかった。
「大人しく、何事にも奥手だったすみれさんに対して、向日葵さんは何事も自分から率先して行なうタイプの女性でした。まあ、姉妹というのはかなり極端な性格になると言いますからね。この二人にしてもそうだったようです。だからこそ、向日葵さんはすみれさんに対して激しい嫉妬心を抱いたのです」
「‥‥嫉妬?」
「そうです。何もかも遅れてやるタイプの姉に対して、妹は軽蔑の思いを持っていました。欲しいものは自分から手に入れればいい、と。しかし、そう思っていた彼女は決してそれがうまく成功していた女性ではありませんでした」
(‥‥ねえ、行かないでよ)
鏡の中の向日葵が男に言う。その声は何かを渇望しているような、悲痛な声だった。しかし、男の顔は険しい。
(うるさい。今日だけの関係だと言っただろ? 俺には妻子がいるんだ。早く家に帰りたいんだ)
(お金払ったじゃない‥‥。それに、奥さんが大事なら何で私なんかと寝たのよ?)
(毎日カレーだと飽きるだろ? だからハンバーグを食べる。お前はハンバーグなんだよ。でも、俺の本当の好物はカレーなんだ)
男はそそくさと脱いだ服を着込み始める。向日葵は自分が全裸だという事も構わず、男の足にしがみ付く。
(奥さんよりも私の方が絶対いいわよ)
(知りもしないくせに何言ってるんだ。‥‥ああっ! もう離せよ!)
男は乱暴に向日葵を振り払う。しかし、向日葵は離れようとしない。男の口がへの字に曲がり、男は向日葵の頭をグーで殴った。向日葵は小さな悲鳴を上げて、その場に倒れこんだ。
「‥‥ひどい」
「‥‥彼女は失敗し、転んで、それでやっと小さな小さな幸せを得るような、そんなタイプの女性だったのです。ところが、そんな妹の姉はいともあっさりと最大の幸福を手にしてしまった」
「‥‥」
鏡の中から、男の姿が消えた。一人残された向日葵はしばらくその場で黙っていたが、やがてしくしくと泣き崩れた。鼻からは微かに血が流れていた。あまりにも、哀れな光景だった。
「この時、彼女はこんな事を思っていました。私はこんなに転んで、失敗してしまうのに、どうして姉さんはあんなに簡単に幸福を手に入れる事が出来るのだろう。大した苦労も失敗も知らず、どうして私よりも幸福になれるのだろう。そんなのはおかしい。私の方が幸せになる権利があるはずだ‥‥とね」
「‥‥」
次に鏡は別の光景を映し出す。そこはどこかの街の片隅で、泥酔した誠と向日葵が一緒になって歩いている。
「これは‥‥」
「あなたと向日葵さんが初めて関係を持つ事になる日です。この日あなたは、向日葵さんと一緒に酒を飲んでひどく酔っ払ってしまったのです」
「‥‥」
あれは一体いつの日だったのか。それはもう覚えていない。この一体何が起こったのかすら鮮明ではない。だが、この日から何かがはっきりと変わってしまった事だけは覚えている。
すみれは寿退社して、専業主婦になっていた。誠はその後、一人で会社から帰ったりしていた。そんなある帰宅の途中、偶然向日葵と出会い、一緒に酒を飲む事になった。誠は慣れない酒を大量に飲んでしまい、帰りはほとんど千鳥足だった。
向日葵の肩を借りながら、誠は惚(ほう)けた顔をする。
(ごめんねぇ。ちょっと‥‥飲み過ぎちゃったみたいだ)
(別にいいですよ。慣れないお酒を飲むって事は、それ程私の事を信頼してるって意味だととりますから)
(ははっ‥‥いいね、そのとり方)
暗い夜道、街灯だけが二人を照らしている。少し歩くとホテル街に着く。勿論、誠はそんな事など知りもしなかった。
(姉さんとの生活、どうですか?)
(いいよ、とても。何もかも‥‥満たされてると思うよ‥‥)
誠が言うと、向日葵は悲しそうな顔をする。誠はそんな向日葵を見ていない。どこを見ているかすら分からない。
(そうですか‥‥。やっぱり羨ましい)
(そうかい? でもね‥‥たまにはすみれ以外の女との‥デートも‥‥悪くなかったよ)
(えっ‥‥)
向日葵は思わず立ち止まる。誠は自分の意志ではなく、止まってしまう。
(‥‥ん? どうしたんだい?)
誠は何が何やらまったく理解していないようだ。向日葵はそんな誠の顔をじっと見ている。その目は何かを渇望するように、強く光り輝いていた。
「‥‥」
「あなたの言った一言により、向日葵さんの心は爆発しました。今のこの人とならば、既成事実を作る事が出来る。そうすれば、あの幸福なお姉さんを失意のどん底に叩き落とせる、と‥‥」
(誠さん。大丈夫ですか?)
千鳥足の誠の肩を抱きながら、向日葵が言う。誠は虚ろな目で答える。
(だ‥‥だい‥‥じょうぶだと‥‥思う。それと‥‥ここって家だっけ? すみれは? すみれはいないのか? ああっ、もう寝てるのかな‥‥)
そこは見慣れたマンションの一角でもなく、ましてすみれなどどこにもいなかった。そこは向日葵と誠しかいないラブホテルの一室だった。紫色に染まった室内は、誠にはどんな部屋なのか分かっていなかった。
(そうですか‥‥大丈夫。なら、いいですよね)
(なっ‥‥何が?)
(ふふっ、これですよ)
向日葵は誠の体をベッドへ押し倒す。酔った誠はいとも簡単にベッドに仰向けに倒れてしまう。向日葵は淫靡な目を光らせて、誠の腰元に顔を持っていく。
(私‥‥あなたと姉さんがとても羨ましかったの。羨ましくて羨ましくて、たまらなかった。どうして、姉さんだけ幸福になれるのか、私には理解出来ない。私にだって、幸福になれる権利があるはずなのに‥‥)
そう呟きながら、向日葵は誠のズボンのチャックをゆっくりと開けていく。誠は向日葵の言った事など何も聞こえていないようで、ただぼんやりと天井を見つめている。
萎えている誠のもの。それを、ゆっくりと向日葵はしごいていく。誠の顔には何の変化も無いのに、それだけはしっかりと反応を示していた。
(姉さんも堕ちればいいのよ‥‥)
そう言って、向日葵は誠のものに口を添えていく。
(私、義兄さんみたいな人、好きですよ。‥‥とても素直な人)
向日葵は憧れていたものを見るような目をして、誠のものをペロリと舐めた。
「‥‥もう分かったから、見せないでくれないか」
苦々しい顔で鏡を見ている誠はそう言う。ジャックがはいと答えると、鏡はまた元の鏡に戻った。
「‥‥ただ関係を持ったとしか覚えていなかった記憶。それがはっきりした気分はどうですか?」
「最悪だね。知らなければよかった」
「でしょうね。でも、これもまた真実なのですよ」
(私ね、誠さんと関係を持ったの)
(‥‥えっ?)
すみれは驚きの顔で向日葵を見る。向日葵は煙草の煙をフゥとすみれに吹きつける。そこは見慣れている新居のマンションの一室だ。そこに誠はいない。
(とっても上手だったわよ。あなたの旦那さん)
(‥‥何で、そんな事を‥‥)
すみれは向日葵の言葉が信じられないらしく、焦点の定まっていない瞳を泳がせてしまう。それを見ている向日葵は勝ち誇ったような顔をしている。
(姉さん、セックス下手なんじゃないの? 少なくとも、私よりはうんと下手クソよね。経験なんて無いも同然だし。だからなんじゃないの? 男の人だって上手な女とやりたいじゃない)
(‥‥)
すみれはぼんやりと向日葵を見る。その目が次第に鋭いものに変わってくる。
(‥‥あんたの方から誘ったんでしょう。あんたが誠さんをそそのかしたんでしょ!)
すみれは立ち上がり、向日葵の胸ぐらを掴む。しかし、向日葵の勝ち誇った表情に変わりは無い。そこに、いつもの子供らしい笑顔などどこにも無い。
(いいじゃない、別に。私、知ってるのよ。姉さん、他の男と不倫してるでしょ?)
(!)
(友達から聞いたの。‥‥だったら、お互い同罪じゃない)
向日葵は不敵に笑って、乱暴にすみれの手を振り払った。すみれは驚愕の顔で向日葵を凝視している。
「なっ! 何だって! そんな馬鹿な!」
誠も鏡の中のすみれと同じ顔でジャックを見る。ジャックは小さく笑う。
「すみれさんは別の、あなたの知らない男性と不倫をしていたんです。」
鏡が新たな映像を映し出す。そこは、さっき向日葵とすみれが口論を繰り広げていた部屋と同じ部屋だった。しかし、今そこには淫らな肢体を曝すすみれと誠の知らない男が、汗ばんだ体をすり合わせていた。
「どうして、すみれは不倫なんかを‥‥」
「誠さん。あなた、向日葵さんと関係を結んでからはあまりかみれさんと関係を持ちませんでしたね? 女性も男性と同じです。性欲があるのです。それが満たされなければ、他の男に気移りしても、おかしくないのではありませんか?」
「‥‥って事は、俺のせいなのか?」
「そういう事になりますね。まあ、そうなったしまったのには、向日葵さんの行動が深く関係あるわけですから、一概にあなたのせいだとも言えませんが」
「‥‥」
(あっ‥‥ああっ! もっと‥‥もっとぉ!)
恍惚と喜びに満ちた顔のすみれ。誠のよく知っている美しい体が、まったく知らない男の手の中で歪んでいく。誠はそれが正視出来ず思わず目を反らした。
「この男性はすみれがよく行くビデオレンタル店のアルバイトさんです。年齢はあなたより少し若い程度です。先に手を出したのはこのアルバイト君です。すみれさんはまだ二十五。それに会社では美人と評判だった。それは勿論、会社の中だけの事ではなかったのです。このアルバイト君もあなたの奥さんの事を狙っていたようです」
「‥‥」
「人は時折、荒々しいまでのセックスに異様にのめり込んでしまう事があります。彼女の場合が正しくそうでした。結婚一年で、夫との関係があまりうまくいかなくなる。そんな時、全てを忘れさせてくれるものに出会えた時、そちらになびかない人はあまりいないでしょう。人とは脆い生き物ですから」
すみれは長い髪の毛を振り乱し、嬌声をあげる。男の方はそんなすみれの細い首に唇を寄せる。
(あっ! ああんっ!)
すみれは男に抱きつき、座位の格好になる。局部がモロに誠の視界に入る。そこは、今の誠にとってグロテスク以外何物でもなかった。思わず、誠は目を反らしてしまう。
「‥‥ジャック。この男を殺す事は出来ないのか? こいつだったら、何の躊躇いも無く殺せる。こいつを殺してくれ」
「残念ですが、それは出来ません。この男は標的に入っていません。それに、この男もあなたの死に大きく関係ありますが、実際にはやはりすみれさんか向日葵さんがあなたの死に最も関係あるのです」
「そんな‥‥。こいつがいなかったら、こいつがすみれを誘惑しなかったら、俺は殺されなかったかもしれないじゃないか!」
誠は熱(いき)り立つ。ジャックは眉頭を揉む。
「この人はすみれさんが既婚者だとは知らなかったのですよ」
「‥‥知らなかった?」
「そうです。これから関係を結ぼうという時に、普通、興が覚めるような事は言わないでしょう? すみれさんは自分は独身だと言っていたのですよ。まっ、しばらくしてから告白したんですけどね。少なくとも、この男は最初はすみれさが既婚者だとは知らなかったわけです」
「‥‥くっ!」
誠は歯軋りをする。憎らしいのはこの男なのに、この男を殺す事は出来ない。なにせ、この男は何の悪意も無く、すみれと関係を持ったのだ。夫がいる事など、これっぽっちも知らなかったのだ。確かな嫉妬と共に誠と関係を持った向日葵、何らかの理由で誠に殺意を持ったすみれ。そちらの方が罪は重いのだ。
鏡の中では相変わらず淫らな姿を曝しているすみれがいる。その顔に、罪悪感のようなものは一切感じられない。ただひたすらに快楽を求めている二十五の体があるだけだ。しかし、誠はある事か気になっていた。
すみれは何故、自分を殺そうという気になったのか、だ。向日葵の告白はその大きなきっかけだっただろう。しかし、それだけで殺すという気にまでなるだろうか? そんなすみれも不倫をしていたのだ、罪悪感を持っていたならば、そんな事は出来なかったはずだ。
「‥‥ジャック。俺が死ぬその日を見せてくれないか? それを見れば、何か分かるかもしれない」
「分かりました」
ジャックは何もかも分かっているようで、すぐさま指を鳴らす。すると、鏡は再び別の映像を映す。そこには、背中に包丁を刺されて絶命している誠の姿があった。
絶命している誠の周りで、すみれが何やら忙しなく動いている。その手には軍手がつけられている。すみれは懸命に部屋の中を散らかしていた。棚に置いてあった本を床に落としたり、ビデオラックを荒らしたりしている。
その時、鏡の中にもう一人の人間が顔を出した。すみれの不倫相手の男だ。男は背中から包丁を生やしている誠を見て、冷汗を流し、膝をガクガクと震わせた。
(本当にやったのか‥‥)
(‥‥見れば分かるでしょ? あなたも手伝ってよ)
(何やってるんだ? あんたは)
(強盗がやってきたように見せかけてるのよ。こうしないと、私が疑われるでしょ?)
(それはそうだが‥‥。それにしても、もっと他の方法があったんじゃないのか? 何も殺さなくったって‥‥)
気が動転してるのはどうやら男の方のようだ。すみれはそんな男に近寄り、いつかの向日葵のように胸ぐらを掴む。
(こんな気にさせたのはあなたなのよ。この人は私の事を心から愛してる。だから、離婚してって言っても絶対に承諾しないわ。だから、この方法にしたのよ)
すみれは男から離れると、また部屋を荒らし始める。その様子を、男は黙って見つめていた。そして、誠もまた、その光景をじっと見ていた。
「‥‥そうか。そういう事か」
「悲しい事ですね」
ジャックはそう言うと、カルーアミルクに手をのばした。
「さて、こうしてあなたが殺されるまでの経緯を見てきたわけですが、どうですか?」
「‥‥」
「最初にあなたが言った言葉、覚えてますか? 俺にはそんな事出来ない、と。でもどうですか? ‥‥気、変わりましたか?」
「‥‥」
誠には分からなかった。何が真実で、何が嘘なのかを。すみれは俺の事を愛してくれていたのでなかったのか? 向日葵はそんな不誠実な理由で俺の事を愛そうとしていたのか? 分からなくなる。今まで信じてきたものが音をたてて崩れていく。
ジャックが小さく微笑む。
「思う存分迷うといいでしょう。散々迷って迷って、そして一つの結論に辿り着くといいでしょう。人生とはそういうものです。あなたの人としての人生はこれで終わりです。だから最後に人として、迷うといいでしょう」
ジャックはそう言うと、カルーアミルクを飲み干した。